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おいたちと発展 剣道の特性 有効打突とは 剣道用語辞典  ア行の部  ├カ行の部  ├サ行の部  ├タ行の部  ├ナ行の部  ├ハ行の部  ├マ行の部  ├ヤ行の部  ├ラ行の部  └ワ行の部

 


   剣道用語辞典

◆ア行の部
相抜け(あいぬけ)
これは針ヶ谷夕雲が剣道の極所を説いたものとして古来貴ばれてきた言葉であるがその真意を的確に表現することはむずかしい。
相抜けは相打ちではない。相打ちはどちらも傷つくが、相抜けは双方共に空を打たせて、いずれも無事であり、太刀の勝負より心の勝負を教えたもので、聖人の太刀合いとも言われている。
いずれかを勝ちと定めんいずれをか 負けと申さん合いの相抜け
 
足軽稽古下郎技(あしがるけいこげろうわざ)
稽古にも理合いにも風格もなく、最も卑しい稽古のやり方をいう。百姓稽古木引(ひゃくしょうげいここび)き技も同じ意味である。
 
一眼二足三胆四力(いちがんにそくさんたんしりき)
これは剣道修行の大事な要素をその重要度に応じて示したものである。
一眼―剣道で一番大事なことは相手の思考動作を見破る眼力であり洞察力である。二足―初心者は手先で打って足がこれに伴わない。むかしから見学の心得に「技を見ないで足を見よ」ということがあるが、技の根元は足であり、足の踏み方使い方は剣道で最も重要視されるものである。三胆―胆は胆力であり度胸である。ものに動ぜぬ胆力と決断力であり不動の意味である。四力―力は体力でなくて技術の力であり、わざ前のことである。剣道はすべて技術を最後にもって来たところにこの教えの尊さがある。
 
一源三流(いちげんさんりゅう)
家のためには汗を流す。友のためには涙を流す。国のためには血を流すという武士の魂を伝えた源流館の教えだといわれている。
 
一国一允可(いんが)
昔の流祖はその流派の秘剣が乱用されるのを恐れ、その流派の「極意剣」の伝授は一国のうちで最高のもの唯一人にしか授けなかった。
又、「唯授(ゆいじゅ)一人」ともいわれ、日本中唯一にしか与えなかった宝山流のような厳しい流儀もあった。昔はそのくらい流儀流派の極意剣は大事にされたものである。
 
イメージトレーニング、メンタルリハーサル
これは最近のスポーツ界で非常に重要視されている訓練法で、常に頭の中にさまざまの状態を描いてそれに対応するトレーニングをやる。

或は精神的訓練をやることで剣道で言えば思念工夫であり、昔から伝わる静思黙考の独り稽古である。他のスポーツでもイメージトレーニングの重要さを教えているが、剣道こそはこれが最も大事であり、昔の剣聖流祖が神社仏閣に参籠し、あるいは岩窟に籠って修行して悟りをひらき、さらに難行苦行の夢寐(むび)の間に開眼するなどはすべてこれ現代流に言えばイメージトレーニングでありメンタルリハーサルの成果である。

最近剣道をやる者はただ道場の打合いだけを剣道修業と心得ているが、本当の修行はイメージトレーニングやメンタルリハーサルによって得た剣理剣法を道場で実際に試みてその正否をただし、さらに演練(えんれん)を重ねて行くのが本当の意味の剣道の稽古である。その大事なイメージトレーニングを忘れては道の修行にもならないし剣道の上達も覚束もない。剣道修行の最も心すべき一条だろう。
 
居付く(いつく)
稽古中に足が床板について、軽快自由に動けない状態。あるいは試合中に精神的機能が一時止って瞬間的動作の出来ない状態。したがってこれは大きな隙であり、相手にとっては逃してはならぬ打突の好機である。
 
一寸の見切り、二寸のひらき
一寸の見切りは宮元武蔵の有名な言葉で、相手の太刀がまさにあたらんとする一寸のところで体をかわすこと。
太刀風三寸にして身をかわすということと同じ原理である。二寸のひらめきとは柳生流の教えで、人の頭の幅は四、五寸であるからわずかに二寸ひらけばその太刀をかわすことができる。その体のひらきを教えたもので心理的には一寸の見切りと同じである。
 
一刀三礼
仏像師が仏像を彫るとき、一刀を振るう前に三度の祈りを捧げて彫る如く、剣道も一刀を振るう度に真摯の祈りを込めて指導せよという心の持ち方を教えたものである。
 
一刀流
伊藤一刀斎の創始にかかる。
一刀流は二刀流に対しての呼称ではなく、一心一刀で信念の一刀に生命をかける精神であり、更に一刀万刀に変じ、万刀一刀に帰すという根本理念に基づいて命名されたもので流祖一刀斎の名前をとったものではない。
 
一拍子の打ち
現代剣道における一拍子の打ちとは動作が二挙動にならぬように打つこと。
例えば、すり上げ面の場合に「すり上げ」と「打ち」が二つにならぬように一挙動で打つ。結局「打つ途中においてすり上げる」心がけが大事であり、太刀も心も一連のものとならなければならない。兵法三十五ヶ条の「一拍子の打ち」とは表現的に若干ニュアンスの違いがある。上泉勢守は「いかなる事態からもまっすぐに一拍子の太刀の出せること」を最高至極の剣として、これを転(まろばし)と読んでいた。
 
異能力士に三役なし
相撲の言葉であるが基本的な正しいことをやらずに特異なやり方で勝つ力士は決して三役まで上ることはできないということで剣道でも変剣難剣で勝っても正道を踏まなければ決してそれは大成しないということである。
 
いわおの構え(巖の身)
心身共に巖の如くいささかも動ぜぬ寂然不動の構え。
剣道の基本である。(宮本武蔵)
 
陰陽の足
剣道の打突には片足ばかり動かしてはいけない。
いかなる場合も右足が出たら左足が必ずこれにつき、両足が同じように動いて体の安定を保ち、打突を正確にしなければならない。それが陰陽の足である。
 
有構、無構(うこう、むこう)
構えはあれども無きが如きもので、心の構えがあれば太刀の構えは不要であり、構えにこだわってはならないという武蔵の教えであるが、これはでき上がった人にして初めていえることで始めのうちは「構えの極りは中段と心得るべし、中段の構え本意なり」と武蔵自信もいっているように初心者のうちは構えを堅確にすることは最も大事なことである。
 
右轉左轉出身の剣(うてんさてんでみのけん)
これは溝口一刀流の秘剣といわれているが相手の攻撃に対してひいてはいけないということである。
右にひらくか左に転ずるか、さもなくば前に出ろということである。柳生流に右旋左転の言葉があるが、結局は「たんだ踏みこめ神妙の剣」がその極意剣である。真剣勝負の心の持ち方を教えている。
 
縁のあたり(えんのあたり)
相手のた太刀を払っても叩いてもあるいは受けても相手の竹刀にあたったら、そらは相手を打つ縁であって、それを合図に必ず打ち込まなければならない。そこは逃してはならない勝機であり、それを縁のあたりというのである。
 
円明流(えんめいりゅう)
武蔵流のことである。武蔵は幼にして父より十手を習い、それを土台にして剣法を工夫して円明流と称した。「心月円明」をとったものといわれている。
 
お止め流(おとめりゅう)
柳生流と小野派一刀流は将軍家指南の流儀であり、これは他流との仕合を禁止された。それは将軍家ご指南が他流との仕合で負けでもしたら、それこそ面目を失墜し、将軍家の権威にもかかわるということで、他流との仕合は一切禁止されたので、これをお止め流と呼んだ。
 
面を刺す(おもてをさす)
相対した時は絶えず相手の心を制し、相手が動いたら剣先でその面を刺す心で前に出よ。
これは真剣勝負のコツでいかなる場合も退いてはいけないという宮本武蔵の教えである。
 
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◆カ行の部
介者剣法(かいしゃけんぽう)
素肌剣法に対して、鎧兜(よろいかぶと)をつけた重装備の剣法を介者剣法と呼んだ。
 
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし(常静子剣談)
道を貴び術を知れば心勇ならずと雖(いえど)も必ず勝つ。
道に背き術に違えば必ず負く。
道を守れば不思議に勝ち、道に背けば必ず負けるという心理術理の妙を教えている。
 
活人剣・殺人刀(かつじんけん・さつじんとう)
活人剣も殺人刀もただその生命を絶つかどうかの問題ではなくて、人を生かすか殺すかに心の持ちよう、刀の使い方の問題である。柳生流には「一殺多生の剣」というのがあるが、一人の悪を断ち一人を殺しても多くの衆生を生かすのが活人剣であり、いわれなき殺生をするのが殺人刀である。
 
勝而後戦う(かってしかるのちにたたかう)
戦って結果として勝つのではなく、戦う前に気で勝ち、心で勝って而後(しかるのち)に戦えという教えである。
「気で攻めて理で打て」というのも同義である。
 
勝つに法あり負けるに理あり
勝っても負けてもその理法に合ったやり方をせよということで、無理無法の盲目剣はいけないという戒めである。
 
香取・鹿島(かとり・かしま)
香取神社には経津主神(ふつぬしのかみ)を祭り、鹿島神社に武甕槌命(たけみかづちのみこと)をお祭りして、ともに武神を祭る神社として尊崇され、武の発祥地とされている。
飯篠長威斎家直はこの地に天真正伝神道流興し日本剣道の源流として知られてる。全国の道場には香取・鹿島の御神霊を武神として移祭しているところが多い。
 
気海(きかい)
気海の気は形なくして多いなる力を発するもの、海は広く無限に漲るもの。
すなわち気力精気の無限に生ずるところを気海という。白隠禅師は「気海、丹田各々臍下に屈す」といっているように気海と丹田はとは表現の違いであって同じ部位をさしているものである。
 
気は大納言の如く身は足軽の如し
気品は大納言の如く高く豊かに持ち、身は足軽小物にも比して忠実細心に働けという教えであり、剣道人の気構えと平素の修行の心構えを教えたものである。
 
虚実
うそとまことであり、剣道的にいえば隙や油断のあるのが虚であり、その反対に隙も油断もなく精神の緊張した姿が実である。
 
居の打ち、色(いろ)の打ち
フェイントをかけて打つ技で相手の気の迷いを打つのである。
虚の剣の使い手であるとか、色の稽古であるとかいわれるのは、いささか蔑視された表現であり、奨励すべき技ではない。
 
切紙、目録(きりがみ、もくろく)
昔は段位がなくて、修行した技前によって階級をつけたが、その一番初歩のランクが切紙であり、これは紙の切れはしなど簡単なものに修行修得した技前が書いてあった。だから切紙と言ったのである。それから目録、印可、免許、皆伝、口決(こうけつ)(口伝)(くでん)と進んで行き、最後が口伝でこれがその流の極意剣の伝授である。

したがってこれは四方の襖を立て切り、周囲の人払いをして深夜ひそかに師匠が直接手をとってその秘術を授けたものである。
披剣中の秘剣を「書きもの」にせず口から直接伝授したのは他にもれることを恐れたものであり、師匠の口から直接伝えられたために口伝と言われたのである。

もちろん前述のようなランクは流儀流派によって異なり、千葉周作は一刀流にあった五つのランクを初伝、中伝、奥伝の三種に絞ったため却って入門者がふえ、入門希望者が門前市をなしたと伝えられている。
 
きまり合い
気合い、理合い、間合いのことで切る間合いだけをさすのではない。剣道でも最も大事な三要素を教えている。
 
驚擢疑惑(きょうくぎわく)
相手と対峙したときにおこる心の動揺や心の動揺を抑えきれない状態をあらわしたことば。驚いたり、擢(恐)れたり、疑ったり、惑ったりする心の状態。四戒、四病ともいい、これをいかに制御するかが重要であるという教え。
 
楠杉の訓え
楠の木は根を一寸張れば上に一寸伸びるように、根と幹とが常に相和して成長するが、杉は根を張らず上へ上へと伸びていく。したがって楠は大風にも倒れないが、杉は少しの強風にあえばすぐに吹き倒れてしまう。
これは剣道心と技との関係を教えたもので、心の修養を積みながら枝を伸ばせば決して誤りはないが、いたずらに枝だけを伸して、心の修養を怠ればわずかの困難にもすぐに挫けて失敗することを戒めている。
 
組太刀(くみだち)
組太刀は一般には形と同義語に取扱われているが勿論形には違いないが、その成立にはいささか異なった意味も存している。形は剣の理合いと実践の経験をもとにして作られた自流独特のものであり、組太刀は他流の技の長所に対して、それに勝つ技を仕組んだものである。
例えば柳剛(りゅうごう)流は臑(すね)を切るからこれに対してはこの技で行く。
示現(じげん)流は袈裟(けさ)がけに着るからこう応ずるといちいちその流儀の長所に対応する技を考案していくのである。
 
稽古(けいこ)
古(いにしえ)を稽(かんが)えるという意味で、日本古来の伝統的な武道や芸道の修行、練習をいう。このことばは単にくり返しを意味するのではなく、技や芸に対する自己の確立や心の問題を理念、工夫していくところに特性がみられる。
 
下部の三所(げぶのさんしょ)(常静子)
剣道では一眼二足といわれるくらい足は大事にされているが心形刀流では腰と足とひかがみとを下部の三所として最も重要視されている。何をやるにも足腰といわれるが、足腰に十分の機能を発揮させるのはひかがみである。

したがってここを硬直させたり、曲げすぎたりしてはいけない。余り目立たない所にあって下部の三所として最も貴ばれるゆんである。
 
剣心一如(けんしんいちにょ)
剣は人なり、剣は心なりといわれるように剣は心によって動くものであり、剣と心は一元的のものである。
したがって正しい剣の修行をすれば正しい心を磨く結果になる。
 
剣禅一致(けんぜんいっち)(一如)
剣は生死の間に於て修行し、大死一番の境地に大活するものであり、禅は静思黙考の裡に大悟するものである。
あずれも生死を超越するところに、窮極においては剣禅全く相共通する一脈があることを教えている。
 
剣の五徳(けんのごとく)
正義、廉恥、勇武、礼節、謙譲を剣の五徳といい、この徳目を身につけるために剣の修行をするものである。
 
攻防一如(こうぼういちにょ)
懸待一致と同意語である。
 
交剣知愛(こうけんちあい)
「剣を交えて"おしむ"を知る」を読まれ、剣道を通じて互いに理解しあい人間的な向上をはかることを教えたことばである。愛はおしむ(惜別)、大切にして手離さないということを意味しており、あの人とはもう一度稽古や試合をしてみたいという気持ちになること、また、そうした気分になれるように稽古や試合をしなさいという教えを説いたことば。
 
五加
神道無念流の形。五加は技よりも気力を重んじる形で、五加五流がその真髄とされている。
 
互角稽古(ごかくげいこ)
技能的に差のない者同士の稽古。また、たとえ差があっても、同等の気持ちになって行う稽古。
 
呼吸
人間の呼吸は複式、胸式、肺尖呼吸の三通りに大別されるが普通は胸式呼吸である。
肺尖呼吸は病人がやるような肺尖でやる最も浅い呼吸で一番不健康な呼吸法である。剣道人のやる呼吸は複式呼吸であり、横隔膜を下げてやる最も深い健康的な呼吸である。座禅や静座をやるのもそのためである。剣道は吐く息で打つので吸う時は隙であり打たれ易い。昔から「呼吸をはかる」ということはそのことをいうので相手が息を吐き終わった時は隙であり、そこを打てというのである。
 
九重の位(ここのえのくらい)、大納言(大納言)の剣
最高の気位を持ち、至高の剣風を持てということで剣道至極の風格を教えたものである。
(足軽稽古下郎技の対比語である)
 
牛頭馬頭(ごづめづ)
牛の頭は大きく馬の頭は小さい。
したがって牛頭馬頭とは大技小技のことで剣道では大技だけでもいけないし、小技ばかりに偏しても駄目である。大技小技を織りまぜてやれという教えである。
 
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◆サ行の部
ささら踊り
剣理を弁えず、ただ竹刀を持って打突するだけに専念する剣道を「ささらを持った踊りなのだ」と比喩したものであり、「所作くらべ」「奴踊り」も同じ蔑視の表現である。いずれも真剣味のない、なり振りかまわぬ剣道を忌み嫌う精神である。
 
悟り
悟りとは仏教でいう「迷いからさめる」ことであり、剣道的にいえば剣の四戒を脱却して超然たる心境に達し。生死を以って二つにせぬ剣の極所を極めることである。「一瞬の悟りに半生の夢あり」といわれるように多年に亘る難行苦行の結果到達できる境地である。
 
三ウン一味
「先」「断」「残」の三つを三ウンという。
断は一刀両断であり、残は残心である。すなわち先の気と一刀両断の信念とさらに残心の心構えとが一体となり、一元的に機能して始めて完全なる「一本」となるもので、気剣体一致などと表現は異なるがその内容に於いては大同小異である。
 
山海の替り
相手が山と思えば海と変わり、海と思えば山とでて常に相手の意表をつくことであり、又三回の変わりとも言い二回は是非なし三回は悪しで、同じ攻め口を何度もやってはいけないという教えである。(宮本武蔵)
 
三磨の位(さんまのくらい)
剣道には「習い」「稽古」「工夫」の三つの要素が大事であり、」これを一体的に練り磨かなければならない。
これを三磨の位という。(柳生蓮也斎)
 
三位の格(さんみのかく)
「露の位」「石火の位」「梵鐘の位」を古来三位の格として貴んでいるが、「露の位」とは木の葉に落ちた水滴が静かに凝集して機満つればポタリと落ちるように決して無理な打ちを出さず静かに気の至るを待つことであり、「石火の位」とは火打石を打てば火が出るように機至れば間髪を入れず鋭い打ちを出すことである。
さらに「梵鐘の位」とは打てば即ち梵鐘のように余韻嫋々たる気の残心を漂わすことである。一本の打ちに理想的内容を示したものであるが、実に麗しい適切な表現である。
 
三無の剣
「無理なく、無駄なく、無法なし。これを三無の剣といい剣の至高なるものなり。音なしの剣はこの境地より出るものなり」
(桃井春蔵)
 
残心(ざんしん)
打突した後も、油断することなく、相手の反撃に対応できる身構え、心構えをいう。一般的には、打突後に間合いをとって、中段の構えになって相手に正対する。剣道のルールでは、残心のあることが有効打突の条件になっている。
 
四戒(四病)
正しい剣を使う上に精神的障害をなすものが四つある。それは恐、驚、疑、惑の迷妄である。
これを剣の四戒といい惑は四病ともいう。

・恐(おそ)れる(懼)―相手の体躯態度あるいは風聞等に恐怖心を抱くこと。恐るれば我が全機能を発揮することができない。
・驚(おどろ)く―相手の構え、あるいは技前(わざまえ)に於て全然予知しないことが起き、その異常さに驚いて平常心を失うこと。平常心を失えば事の正かつを誤る。
・疑(うたが)う―相手がどう出るであろうか。何をしかけるであろうかなど疑心暗鬼を生ずることで、疑えば決断ができない。
・惑(まど)う―相手に対してどう仕かけようか、どう応じようかといろいろと思い惑うこと、惑えば適切なる判断ができず果敢なる攻撃ができない。
 
只管打座(しかんだざ)
ひたすら打座れということで、あれこれ雑音に惑わされることなく只一向に念仏を唱えて打ち座っているうちに道は自然にひらけると言う法然(ほうねん)の教えである。
剣道もこの精神で、あれこれ思い煩うことなく只一向に稽古にはげめば道は自らひらけ、理も明らかになり、稽古も必ず上達するという教訓である。
 
直心是道場(じきしんこれどうじょう)
これは唯摩居士(ゆいまこじ)と光厳童子(こうごんどうじ)とのやりとりの言葉だそうであるが「直心」すなわち素直な心をもって精進修行すれば天地到るところが道場であり修行の場所ならざるはないという唯摩居士の教えそのままとったものである。
 
止心(ししん)
止心とはある一つのことを心に留め、そのため肝心のことがすべておろそかになって、失敗することで、剣道で最も嫌うことである。
例えば面を打とうと面にばかり執心すれば他の部位がおろそかになってそこを打たれる。相手が小手がうまいからと小手ばかり用心すれば面を打たれる。すべて止心のなせる罪である。よく例に出される千手観音の話であるが千の手を持っていても一本の手に心が留まればあとの九百九十九本の手は皆死に手となって何の役にも立たない。一本の手に心を止めなければ千本の手はそれこそ千手観音の用をなして全機能を発揮できるということである。
 
地蔵肩に不動腰(じぞうがたにふどうごし)
地蔵さんの肩はまるく無駄力が入っていない。不動さんの腰は頑丈で堅確である。
剣道でも肩は地蔵さんのように脱力したなで肩であり、腰は不動さんのように強く重厚であれという剣の理想の姿を説いている。
 
撓競技(しないきょうぎ)
昭和二十年終戦と同時に剣道は禁止されたが、剣道を愛好する人々は何とかして剣道を復活させたいと種々内容を検討改変したが、どうしてもGHQの許可をえられなかった。

その理由は占領軍極東理事会の決議により剣道という字はいっさい使えなかったからである。そこで先ず名称を撓競技と改称し、形態は異なってもそのないように剣道的要素を織りこんで作ったものが撓競技である。しないも現在のような四つ割りではなく、竹を四つ割りから八つ割り、先端は十六割りと先に行く程こまかく割り、それを布袋に包んだものである。競技方式も一定時間にポイントを多く取った者が勝ちであり、かけ声はいっさい禁止された。戦争中の突貫のイメージがあるからである。

それもこれも剣道を発展させるための一時的カムフラージュであれば仕方がないと、多くの人の理解と強力をえて次第に普及し、体協加盟も許され、昭和二十七年からは中学校以上の学校教育に採用されるまでに充実した。

その後講和条約が締結されて元の剣道も自由にできるようになったので、両者合体してその長所を採り、始めは剣道撓競技連盟と称したが、やがて現在のような剣道という名称のもとに統一されて今日に及んでいる。
 
師なきは外道(げどう)
禅家の教えであるが、良師なきものは外道に落ち、いつまでたっても本物にはならない。
剣道も初めから良い師について学ばなければ外道に堕ち邪剣になり変剣に堕する恐れがある。最初から良師について正しきを学べという教えである。
 
師はローソク
ローソクは身を焼き尽くして周囲を明るくするものであり、世の指導者も又身を犠牲にして世のため人のために挺身せよという垂訓である。
 
守・破・離
仏教では習。絶・真ともいい、あらゆる道の修行における順序段階を教えている。

・守―教えを守り私意をさしはさむことなく、ひたすら基本を身につける段階である。書道の楷書にあたるもので、一点一画をゆるがせにしない心配りが大切である。
・破(は)―守の殻を破り躍進する時代である。いままでの教えを基礎とし、中核として、自己の知能や個性を発揮して次第に自己の剣道を創造する時代で書道の行書にあたる領域である。
・離(り)―孔子の七十にして矩(のり)を超えずの境地であり、あらゆる修行の結果我が思いのままに行動して、いささかも規矩にはずれることなく、一つの形や流儀流派にとらわれることもなく、自由闊達に自己の剣風を発揮できる時代である。

書道の草書の位である。
 
上丹田(じょうたんでん) 寸田(すんでん)
丹田に対する言葉で、これは目と目の間(小鼻)又は眉と眉の間(眉間)(みけん)のことで一刀流では寸田と呼んでいる。
ここは小さいけれども人間の急所である。丹田は胆力精気の無限に生じるところ、上丹田は智力判断力等の英智の沸き出ずるところと解すべきだろう。
 
序・破・急
物の動きの順序を教えたもので、初めは静かに次第に早く、最後は最も急にやれということで、居合いの刀の抜き方がこの方式である。先ず鯉口を切り、静かに抜き初め、次第に速度を増し、そして最後は抜きつけの鞘ばなれであり、この瞬間が最も早く、最も鋭い。
剣道の打突もまさにこの通りであり、初めは心静かに始動し、最後の打突のところが一番強く一番鋭くなければばらない。
 
随所に主となる
これは臨済宗の教是であるが、どこに行ってもそこを支配するだけの器量人になれということで、剣道的に言えば宮本武蔵の「将卒の訓え」であり、相手の自由に引き廻す将となるべしという心の位を教えたものである。
 
捨て身
文字通り身を捨てることであり剣道の極意でもある。「身を捨てて又身をすくう貝勺子」という一刀流の歌は身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれという究極の心境を教えている。

宮本武蔵も真剣勝負は「我が身切られに行くと思え」といっているが、これも捨て身であり、針谷夕雲の「相抜け」も又捨て身である。

上杉謙信は「生を必すれば必ず死し、死を必すれば必ず生く」と死を必する捨て身の精神を説いているが、これが剣の心であり戦いに臨む精神である。
 
素振りと素打ち
素振りと称して空間の連続正面打ちをやっているが、これは素振りでなく素打ちである。振るということは棒の一端を持って他の一端を動かすことで打つのではない。自分の力を意識的に作用させてはならない。

剣道で一番嫌うことは空間打突であり、空間で打突すれば必ず無駄な力でこれを空間でとめなければならない。その無駄力のブレーキが剣道上達の障害をなすものであり、それがいけないのである。素振りはどんなに早く激しくやってもよいが素打ちはいけない。

今でも正面打ちを分解して一、二、三と掛声をかけながら昔式の空間打突をやらせているところがあるがこれは即日改めるべきであろう。その場連続正面打ちもやり方によっては同様の意味で弊害がある。重心の上下動は剣道では禁物であり、正面打ちや上下振りも重心を落着けてすり足でやることが望ましい。
 
西江水(せいこうずい)
西江水とは碧巌録(へきがんろく)に出る言葉でそれを柳生流の秘伝書に取り入れられたものだと伝えられている。
柳生流の秘歌に、「兵法の数の習いを打ち捨てて、西江水を一口に呑む」というのがあるが西江水を一口に呑むとは揚子江の水を一口に呑むことであり、宇宙を呑吐し自然と一体になれということであろう。

剣の極致はいかなる流儀流派も皆「無」であり自然に帰することである。柳生流においても「西江水」をもってその真髄を表現したもののようである。
 
施無畏(せむい)
無畏を施すこと。種々の畏怖を取り去って救うことで剣道的にいえば恐れを知らぬ不動心を教えること。
普段はあまり聞きなれない言葉であるが剣道ではその心境を説く時によく使われる言葉である。浅草の観音様に「施無畏」の字が大書してあるのは観世音菩薩を施無畏長者と呼び、この菩薩が無畏を施す威力を持つためであるといわれている。
 
禅(ぜん)
禅とは梵語のジュハーナ(禅那)ということで沈思黙考のことだそうであるが、今では「無」の境地に入る修行法をさしている。
私共は禅といえば座禅であり、何日間も結跏趺座(けつかふざ)して行ずるものと思っていたが、禅には久米平内がいうように座禅、掛け禅、仁王禅があり、椅子にかけても仁王様のように立ち上がってもその中に禅があると教えられている。さらに普家(ふけ)禅、吹(すい)禅というような尺八禅もある。

宮本武蔵は、「見よいかに加茂の競馬の駒くらべ、駈けつ返すも座禅なりけり」とよんで馬に乗って駈け廻るのも禅だといっているが、これ言うなれば一種の動禅であり、何をやってもいかなる方法を以ってしても「無」の境地になり切ればそれは皆禅である。

剣道も結局一生懸命にやっても「無」の境地に達すれば武蔵流にいえばあきらかに動禅である。座禅も公案もなくても剣によって生死超越の妙境に達すれば、それは明らかに禅であり剣禅一致の妙境というべきであろう。
 
争心あれば壮心なし
剣道で攻撃精神や闘争心は最も必要なことであるが、それが勝敗を争う功名心となり争心となれば本当に道を修める壮大なる心を失うものである。「争い碁に名句なし」といわれるように争いの心があれば名句は生まれない。剣道も勝敗にこだわる卑怯な争心あれば壮大なる名試合は生まれない。
 
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◆タ行の部
大強速軽(だいきょうそくけい)
初心者指導の幼諦は「大きく正しく」ということで大強速軽はその上達への過程を教えたものである。
すなわち最初は大きく振り冠(かぶ)って強く正しく打つ。そのうちに技もだんだん速くなり、無駄力をなくして次第に軽妙になり、冴えのある立派な剣道になるということである。
 
丹田(たんでん)
丹田の丹は赤であり、物の精粋である。
中国では昔不老不死の薬を丹といい、日本でも森下の仁丹、越中富山の反魂丹(はんごんたん)などがある。田は物を生ずる所であり、結局丹田とは精気精粋の生ずるところという意味である。貝原益軒はその養生訓に「臍下三寸を丹田といい、これは身命の命根のある所なり」と説いている。座禅をし静座するのも皆丹田の力を養うためである。
 
畜生剣
針谷夕雲は「相抜け」を以って剣の極意とし、平素工夫もせず鍛錬も怠り、ただ自分だけ勝とう勝とうとあせるのは畜生心であり、その剣を畜生剣としていやしんだ。
 
月の抄(つきのしょう)
柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)が祖父石舟斎(せきしゅうさい)、父但馬守(たじまのかみ)より受けた教えを柳生家秘伝書として書きとめ、その精粋ともいうべきものが月の抄である。この中に柳生流の秘伝秘剣がことごとくしるされている。
 
鍔で打割れ八幡座(天真正伝伸道流)
八幡座は鉢真座で頭の真ん中である。真剣勝負の時はどうしても体が遠のくものであるから、思い切り踏み込んで鍔で相手の頭(ず)がい骨を打ち割るくらいの気概を持てという教えである。
又天心流には「鍔で突き破れ面部流」という言葉もあるように真剣勝負には身を捨てて鍔で戦う気力が必要だとその踏み込みの精神を教えたものである。
 
強きを論せず正しきを説くべし
強いこと勝つことばかりをいわず、正しい剣の道を教えなければならない。
それが一番大事だという指導上の留意点を示したものである。
 
手元が堅い
構えが堅確で、いかなる攻撃にも剣先に狂いがなく、打込む隙のないこと。
(竹刀をかたく握って握りのかたいのとは意味が違う)
 
天地の足
剣道では天地に踏めという教えがある。
両足を同じようにべったり踏みすえたり、両足とも爪先で立つようなことはしないで、一方はやや高く、一方はやや低めにし進退自由なる如く踏めということである。
 
道場訓
道場訓はその道場の教育方針であり道場の精神である。
したがって道場訓を見ればその道場の教育方針が一目で分かる簡明なものでなければならない。むずかしい文句や長たらしい冗文をいくら並べても修行者に理解されなければそれはゼロである。道場訓は裏から見れば修行者の心得であり日々修行の目標になることが又大切である。

参考までに玉川大学修行訓を下に掲げる。
一、正しきを学べ。心を正し、身を正し、技を正し、行いを正せ。
二、己に克て。人に勝たんとすれば先ず己に克て。苦しみに堪えよ、人のしない努力をせよ。
三、心常に剣を離れず。絶えず研究工夫せよ。言動は常に剣の教えに違わず
 
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◆ナ行の部
二天一流(にてんいちりゅう)
二刀流は宮本武蔵の創始にかかるものであり、これは武蔵が春日神社の巫女の打つ太鼓のバチさばきを見てそれにヒントをえて工夫したものといわれ、又百姓の水喧嘩に巻きこまれ両手に棍棒を持って振り廻しその利をさとったともいろいろ伝えられているが、本当は武蔵自身が「太刀を片手にて取り習わせんが為なり」といってるように、まさかの時に左右両手が自由に使えるために工夫修練したものだろう。

したがって真剣勝負において二刀を使ったことは絶無であり、巌流との試合も勿論一刀であった。而てニ天一立(りゅう)であり、両刀を一刀に使いこなすところに二刀の至極があり、それを生命としてかく命名されたと伝えられている。
 
上り兵法下り音曲(のぼりへいほうくだりおんきょく)
昔は京都が日本の中心であり京都に行くのが上りである。
したがって上り兵法とは関東から京都に行くことで、兵法は鹿島の剣を中心に関東が盛んであったから、兵法は関東から京都に伝えられ、逆に音曲は京都が本場であったから京都から関東に流れたのである。文化武芸び交流経路を伝えている。
 
乗るか返るか(のるかそるか)
日常の用語にも「勝つか負けるか」という時に「乗るか返るか」ということがよくいわれているが、これは武術からきた言葉で、剣道で相手の攻めに対してさっと出て乗るか、はっと驚いて返るかが勝負の岐れ目である。
昔から「三つ乗り」といわれているように「気で乗れ、身で乗れ、太刀で乗れ」というのが対応の原則であり、これを忘れては勝機はない。最も心すべき「先」の気位である。
 
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◆ハ行の部
葉隠(はがくれ)
「葉隠武士」「葉隠精神」等の名称はよく聞かされているが葉隠という語源は定かでない。私は西行の『山家集』の中にある次の歌がその語流でないかと思っている。葉隠れは木の葉がくれの雑談であり今でいう縁陰閑話だという学者の説もあるが、私はこれ程のものがさしたる信念もなしに名づけられるものではないと思う。

「葉隠れに散りとどまれる花のみぞ、しのびし人に逢う心地する」(西行)
これは「武士道とは死ぬことと見つけたり」という葉隠精神とは逆行するように思う人があるかもしれないが「葉隠れに散りとどまれる花」忠誠の真の武士道があり「しのびし人」に耐え忍ぶ本当の葉隠精神があるように思う。

葉隠とは死に急ぎの哲学のように思われているが、葉隠の「死」とはただ自己の生命を断つことでなしに己を捨てて義を立てる精神に徹することであり何としても生き抜いて義を尽くすことがその本義である。葉隠の冒頭に「山の奥よりも土の下よりも、生々世々、御家を守護する心こそ鍋島侍の覚悟であり我等の真髄である」と書いてあるように、御家を守り君に忠を尽すことがその第一義である。

国を思い、君を案ずるならば軽々しく死に急いではならないし、七生までも生まれ変わってその目的を果たす覚悟がなければならない。
葉隠でいう「武士道は朝な夕な死に習い」ということはいかなる些事に関しても死力を尽して当れという心構えの程を教えたものである。葉隠精神が今の世に大きく謳歌されるゆえんのものもまたここにその素因があるのではあるまいか。最近の世相は国もなければ道もない。自分を守るためにはすべての物を犠牲にしてもかまわないという保身の術であり、延命の哲学に墜している。

かかる混迷の世代においてこそ「正義の旗手」をもって任ずる剣道家はすべからく葉隠の精神を体し「世直し運動」の先兵として活躍しなければならない。それが剣道人の使命であり責任である。
 
一の太刀(ひとつのたち)
これは塚原卜伝(つかはらぼくでん)の秘剣であり、いちの太刀ではなくひとつの太刀と読むそうである。

真意の程は分かりにくいがいろいろな本の結論は大体次のようである。
一つの太刀は三段の位なり
一つの位とて天の時なり(天の時)
一つの太刀とて地の利なり(地の利)
一つの太刀とて人物の巧みに結要す(人の和)

つまりは天の時、地の利、人の和の三位一体のことであり、この天地人の要素がひとつに和した時に初めて剣の真髄を発揮できるという訓えであろう。ただ打合いだけの古い時代にこうした大乗剣の真理に到達していた卜伝の剣道観を高く評価すべきであろう。
 
ふくろう剣法
梟(ふくろう)は暗いところはよく見えるが、明るいところは一向に見えないので、ふくろう剣法とは大事な理合いのところは一向に分からない盲剣法のことである。
 
武士の恥
一、聞き怯じ
二、身くずれ
三、内笑い
いずれも武士の恥であるが、中でも内笑いは人の心の中であざ笑われることで一番の恥とされている。
剣道界には段位称号なる権力があり下段者はこれに対して平身低頭しているが、その人物に対して、或はその行為に対して内心嘲笑しているかもしれない。現代の武士といわれる剣道家はこの内笑いをとくと警戒しなければならない。
 
仏性鬼面
指導者は表に威厳をたたえても内心は仏性をもって愛の教育をやれということである。
仏頂づらに鬼心では教育の成果は上がらない。
 
不動智神妙録
沢庵が禅学上の見地より剣道を論じて柳生但馬守に与えた名著であり、剣法と心法との接点を論じて極めて鋭い精彩を放っている。後生剣心一如を説く者多くはこの書に端を発し、剣道の術法が心法に結びついたのは主にこの書の力であると言われている。
 
武の七徳
一、暴を禁じ
二、兵をやめ
三、大を保ち
四、功を定め
五、民を安んじ
六、衆を和し
七、財を豊かにす
これは中国の訓えであり、武の精神を通じて治国平天下の行政的心法施策である。
 
不立文字、教外別伝(ふりゅうもんじ、きょうげべつでん)
「妙の字は小さい女の乱れ髪、結うにいわれず解くに解かれず」の道歌が伝えるようにいわれず解くに解かれぬ妙法が不立文字であり、教外別伝である。
剣道の極意はあまりにもむづかしくて筆にも言葉にもいい尽せないことが多く結局は修行によって体得する以外に道のないとこを教えている。
 
平常心是道
剣道的にいえば恐、驚、惑等の四病を排し、常に平静の心を持ち冷徹の精神を失わぬことが一番大事なことであり、それが正しい人の道であり最高の道徳である。
 
兵法(へいほう)(或はひょうほう)
兵法とは一般には軍略軍法などど解せられている。徳川時代には武術全般をさしていたが、どうしたものか特に剣術のことだけを兵法というようになった。
宮本武蔵は大の兵法と小の兵法との二つに分け、軍団による戦争を大の兵法と言い、一対一の剣術のことを小の兵法と言った。柳生但馬守も兵法を大小二つに分けてこれと全く同じ表現をしている。剣術を兵法と言うのは「兵は武器なり、これを持つ者を兵士と言い、これを習う術を兵法という」と言う言葉に由来していると言われている。
 
投りこみ面(ほりこみめん) 〈投りこみ小手〉
投りこむという言葉は剣道的には非常に邪道に聞こえるが、これは打突の内容至極のところを実によく表現している。
現在の剣道打突は極端に言えば自分の腕で竹刀を運んでいるので竹刀にブレーキがかかり、スピードも鈍り打ちの冴えも出ない。ところがこれを投りこむように腕の力を抜いて投げつければ、スピードも出るし、楽に打てて技もよく決まる。思い切り投りこんでその最後のところを小指でしめて太刀の流れないように極めるだけである。その緊張緩急の指の使い方が手の裡である。上手の人程楽に打って冴えが出るのはそのためである。よくよく吟味工夫すべきことだろう。片手突きを突いて見ればその機微のところがよく分かる。
 
放心
放心状態の放心ではなく、心を一ヶ所にとじこめず、自由に放っておけば自由に機能していつまでもお役に立つという意。
孟子のいう「心は要放、覓2放心1」もこの心である。
 
法定の形(ほうじょうのかた)
直心影流の形で、技よりも気を練り、間合いを知り、筋骨を鍛えることがその目的とされている。
多くの形の中でも傑出した気力迫力が感ぜられる。
 
歩歩これ道場(ほほこれどうじょう)
「一鉢千家の飯、歩歩これ道場」という禅家の言葉であり、一歩一歩が道を修めるよすがであり、天地至る所が修養の道場であるという意。「方々これ道場」も同意語である。
 
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◆マ行の部
枕のおさえ
これは兵法35カ条の中にある教えで、敵が打ち出さんとする気ざを受け、その打たんとする動きの頭をおさえること。
気にても、太刀にても、身にても押えよと武蔵は教えている。現代の剣道でいえば「出ばな技」であり剣道至極の技である。
 
道とは何か
道は「首」と「しんにゅう」からなり立っているが「首」は人間であり、「しんにゅう」は止ると行くという字の組合せだそうである。
したがって道とは人間が行きつもどりつするところであり、その意味から発展して人間が何べんも同じことを反復思考して得た最高至善のものを道という。
荘子は「宇宙を支配する原理を道という」と言い、南泉禅師は「平常心是道」と答えている。表現はいろいろと異なっても中庸にあるように「天の命ずるこれを性といい、性に従うこれを道という」というのが一番分かり易い適切な表現であろう。
 
道は秘するに非ず
「道は秘するに非ず秘するは知らせんが為なり」とは柳生家伝書の中にあることであるが、すべて剣の極秘を簡単に教えていないのは、これを秘密にしておきたい為ではなく、自ら進んで難行苦行の末体得し本当のところをしらしめいたいためである。
他の芸道においても「芸は盗むもの」といわれるように、いかなる道と雖も簡単に教わっては身につかないものであり、その真髄を知るためには盗むくらいの真剣味と積極性がなければならないという、その心理をといたものである。
 
無刀取り(むとうどり)
無刀取りとは映画やテレビでやるように両手で相手の太刀をはさみこんで、もぎ取るようなやり方ではない。「とる」ということは柔道で一本とるというように「勝つ」ということで無刀で勝つことである。
これは柳生石斎の創始にかかるものであるが、その子宋矩は次のようにいっている。
一、無刀取りとは必ずしも相手の刀を取らねばならぬことではなく、自分が無刀の折に相手を制する技である。
二、相手を恐れず敵の間合いのに入り「切られて取る」覚悟がコツである。
「たんだ踏みこめ神妙の剣」というのが柳生流の秘剣中の秘剣といわれているが無刀取りはその精神の極致を発露したものである。
 
明鏡止水(めいきょうしいすい)
研ぎすました鏡の如く、又静止清澄の水の如く澄み切って、どんな小さなものをも心に写す心境のことで、剣道では相手の動きをこの浄玻璃に写して直ちに対応しなければならない。心にさざ波が立てば相手の動きをとらえることはできない。したがって剣道ではこの清澄の心境を「明鏡止水」と称して尊ぶのである。
 
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◆ヤ行の部
四つ習い
「師に習い、友に習い、己に習い、場に習う」と言うのが昔からの四つ習いであり、すべて何を習得するにも師にも習い友にもたずね自らも反省し更に実地に修練して場になれることが必要であり、一つのことを成就するにはかくの如く、あらゆる角度からの勉強と研究が必要だと、その事上練磨の大切さを説いたものである。
 
よみと勘
よみとは思考の積み重ねの結論であり、勘とは甚しい力と書き、五感を絶した瞬間的ひらめきである。
勘は修練によって自然に体得されるものであり、試合の打ちは大抵勘によるものが多い。
 
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◆ラ行の部
理業一致(りぎょういっち)
理は理合いであり業は技である。剣道を学ぶには理に偏してもいけないし、技ばかりに片寄ってもよくない。理を根底にして技を磨いて行くのが理想であり、理と技とを一元的に修練するのが理業一致である。事理一致も全く同じ意味である。
 
理念
そのものの「理想とする概念」を理念という。
剣道の理念といえば剣道の理想とする概念であり、目的とはいささか異なるものである。目的とはその理念を体して打ち立てられる具体的指標である。
 
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◆ワ行の部
割り稽古
これはお茶の言葉で、お茶はたてて飲むだけでなく、襖の明け方、立て方、品物の並べ方などそのやり方作法に一層の意義があるものであり、そうしたものを部分的に学ぶことを割り稽古という。
剣道でもただお面こ小手の打合いだけでなく、稽古着袴のつけ方、立ち方座り方などにも道としての大きな意義があるものであり、こうしたことをおろそかにせず大事に学びとっていくことが剣道の割り稽古である。


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